店舗案内|BAA自転車の事なら、横須賀のサイクルショップショーワへお任せください。

サイクルショップショーワ
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店舗案内

社名 株式会社 横須賀昌和モータース
店名 サイクルショップショーワ
代表取締役社長 中村 泰哉
TEL/FAX 046-851-1880
所在地 〒238-0034 神奈川県横須賀市金谷1-1-5
設立 昭和31年7月13日 株式会社に法人化
資本金 1,000万円
事業内容 スポーツ車、通勤通学車、お買い物車、電動アシスト車、子ども車など、トップメーカーの自転車の販売とBAA安全基準に則った自転車の修理。TS緑マークの自転車安全整備店。
その他 「横須賀市」「町内会」「学校」「警察」「安全協会」また「自転車協会」「神奈川県自転車商協同組合」「日本交通管理技術協会」「日本交通車両検査協会」とのお付き合いも積極的に行っています。

交通アクセス

サイクルショップショーワ

京浜急行線 「汐入」駅 よりバス「池上経由衣笠駅」行き「平作」下車30秒。
JR横須賀線「衣笠」駅よりバス「池上経由横須賀駅・汐入駅」行き 「平作」下車30秒。
のどか過ぎる金谷商店街にあります。
横須賀の金谷1丁目1番地です。
YOKOSUKAのゴールドバレー?です。

沿革・歴史  自転車史と共に

1953年頃

戦後の復興期、金谷商店街建設と共に先代により開業(店名、なかむら商会)。

先代は寺の次男。警察官や市役所等公務員の職に付いていたらしいが、一本気な性格ゆえ上司と喧嘩をし辞表を叩き付け長続きしなかったそうです。

最近になって税理士資格の書類が出てきて税務署にいた事もわかりました。
開業当時はナショナルの家電や文房具も販売していてTVが入荷した時は店頭に人が溢れ、店前の道路を走る京急さんのボンネットバスが反対車線に迂回して走ったという伝説もあります。

「三丁目の夕日」の映画を観ると先代を想い出すという方もいました。瞬間湯沸かし器の性格を含めてでしょうか?

店の別名「ラジオ屋」でした。

まだ知名度の浅かった新興メーカーブリヂストン自轉車(市内初)を販売開始。

1955年

自動車(ダイハツ)、オートバイ(昌和)と事業を拡大。

母親がお嫁に来た年です。母の兄が昭和天皇のご令弟様である高松宮宣仁親王にお仕える仕事をしていたので皇室に関係のあるお嫁さんと言われたらしい?幼き日の私はそれが理解できず天皇陛下は遠い親戚だと本気で思っていました。

1956年

7月13日株式会社に法人化 資本金40万円。
株式会社横須賀昌和モータース(昌和製作所オートバイの横須賀地区代理店であった事が社名の由来です。)

1958年

店の女将(母親)が大病を患い2年間の入院生活。

当社は5.6人の従業員によって支えられていました。
自動車部の修理工場は番頭さん、店が先代(父親)が担当。
自動車部には市内の番長達ツッパリのボスが次々と就職し数年で卒業してゆきました。

番長グループとも普通に付き合える能力?はこの当時学びました。
昭和のバンカラ番長はガキ大将としての熱い心と優しさがありました。
この経験は80年代ワンパクBMX少年をまとめる時に大いに役立ち?ました。

1960年

警察官であった先代の身体が大きく強面印象からなのか「町の第二交番」の異名。

「二人乗りするな!」「交通ルールを守れ」「標識を見て走れ!」自分の子どもだけではなく来店する子供たちによく怒っていました。

ブリヂストンサイクルが国内トップメーカーになり大ヒット商品を次から次へと出し当店新車販売増。

1963年

当社自動車部が移転。
店舗から軽自動車ミゼット等、修理車検の自動車がなくなり自転車とオートバイだけに。

従業員の為にお風呂と着替え部屋を用意したのもこの頃でした。まだまだお風呂や電話、テレビが一般家庭に普及していない時代でした。

1964年

ブリヂストンサイクルの観光客向けの貸し自転車事業の協力。
2年ほど当店が担当していましたが京急線の三浦海岸駅開通と共に拠点移動。

私の友人を10人ほど集めてサイクリングクラブ「なかよしクラブ」を作るが城ケ島に一回行っただけでした。

先頭を走らされ二段階右折や全体のペースを考えながらの走行を一番後ろをトラックで走る先代から指導を受けました。

この経験がその後のBMXチーム「横須賀フォックス」名物「連隊走行(編隊とは呼ばない)」の基本となる。

東京オリンピック開催年。

1972年

世界的なバイコロジーブームで自転車が一部の人の乗り物から大衆車へ。

1978年

2代目である私がブリヂストンサイクルに就職。
「最高の品質で社会に貢献」の理念を柱に社会人としての常識マナー、組織の行動論、業界人と同業者との協力、シェアアップの戦い方BS営業戦法・・・・等、東京奥多摩研修所での合宿がスタートでした。

日本の老舗ブランドであり神奈川県に本社を持つミヤタは最高のライバルでした。

多くの経験をし、多くの事を学ばせて頂きました。感謝の日々でした。

「バカの2代目になるな!」と、上司や販売店からよく𠮟られたっけなぁ。

倉庫であったバックヤード部を店舗に店内改装。

1979年

先代が病に倒れ2ヶ月間の入院。
閉店の危機でした。私にとってブリヂストンに残るのか店を継ぐのか決断の時でした。

そんな時、たまたま観た東芝日曜劇場「倅」(せがれ)渥美清さんが演ずる下町の小さな自転車屋のドラマに泣けて泣けて店を継ぐ事を決意。白いツナギを着た勝手気ままな寅さんとバカ息子のストーリーでした。


ブリヂストンサイクル退社後、バイシクルモトクロスBMXに魅せられ取り扱い開始。ブリヂストン・ジョーズが店内に登場しました。

ただ、音頭をとった優等生ブリヂストンがBMXの危険性なのか?客層なのか?数年で撤退し残された当店はまだまだ超マイナーであったマングースを始めとするアメリカンブランドの取り扱いを開始しました。


TSマーク(障害、賠償責任保険付き点検整備マーク)を発行できる自転車安全整備店の資格を取得。

プロの登竜門である整備士資格に合格。
横須賀の叩き上げ筋金入りの整備士である老舗問屋杉山商店さん。ブリヂストン自転車県内販売台数第1位横浜洋光台フラワーサイクルさんのご指導を受けました。

とても御高名な師匠さんで幸運であったと思います。

安全整備の基本を受け継がせて頂きます。ありがとうございました。



1980年

店に集まるワンパク自転車少年達とBMXチーム「ヨコスカチームフォックス(横須賀フォックス)」を結成。
ブリヂストンの赤袖ジャージとヘルメットに水色のハチマキをしてのスタートでした。

アメリカで生まれたマウンテンバイクを真似てマングース26クルーザーに変速機を付け販売開始。日本にマウンテンバイクが登場するのはその数年後。

店の営業方針をめぐって先代と度々衝突。
母親の入院中献血までして下さったブリヂストン社員への恩を忘れない先代にとってブリヂストン以外のメーカーが店内に並ぶことを許しませんでした。

店頭で繰り広げられる乱闘に「寺内貫太郎一家の自転車屋」。

先代には逮捕術という警察技がありました。

1981年

平作、大蔵寺瘡守神社下に横須賀初のBMXコース「フォックス、フィールド」完成。

先代も少しづつBMXに理解を示し、実家であるお寺の使っていない土地を使わせて頂くことになりました。

6人用スタートゲートのコンパクトなコースでした。
日本人で初めてアメリカのBMXレースに参戦し、全国BMX協会(NBA)初代#1プレート保持者だった益子さんによる設計でした。

その後、彼は横須賀フォックスのコーチとなりトレーニング法の原型を作り、レースでビリを争う「負キツネ弱小フォックス」を「全日本チャンピオンを生み出すチーム」へと成長させてゆくお手伝いをしてくださいます。
新しく作られたキツネをイメージした黄色いチームジャージも彼のデザインでした。

「全力ライディング!全力フィニッシュ!」がチームスローガンで勝つための努力を子ども達に話続けましたが益子さんとの本音は「仲良く自転車子ども会」でした。

勝てない子も元気でいられる環境づくりを意識しながらも、子ども達には勝利とルールの厳しさを目標に徹底させる!

「俺たちは戦うレーシングチームだ!ベストを尽くせ!最後まで諦めるな!」と。

1982年

映画E、T公開、全国的にBMX大ブーム。
市内の映画館とコラボ。桑原BMXを映画館内で宣伝。

その後、BMXアドベンチャー上映の時も映画館は違いますがマングースBMXを提供展示。
抽選にてプレゼント。

横須賀基地のアメリカ人の少年少女達10人近くがBMXチーム横須賀フォックス(TEAⅯ FOX)に入会。
アメリカの文化や習慣、教育等多くの事を学びました。

アメリカの子ども達の親がブルーリッジの艦長さんを始めとする全員が米海軍幹部だったと知り驚きました。

元気で陽気でとても優秀な子ども達でした。


マングースBMX当店オリジナルカスタムモデル「フォックス、マグラ、桜、イチロー、アボラス」5シリーズを販売。

桜とイチローモデルは横須賀フォックスのライダーの名前でした。ちなみにイチロー君の苗字は鈴木でした。

同姓同名のプロ野球スター選手が登場する何年も前の事です。

ミンテンシャンのBMXフレームでカスタムした「スーパーモグラ」もアメリカ少年から「ⅯOⅬE・BIKE(モグラバイク)」と呼ばれて人気があったな。

アラヤ(ツバメ自転車)から「マディフォックス」という国産マウンテンバイク発表。

チーム名と同じフォックスに親しみを感じる。

1983年

横須賀ベース、ブルー・リッジの艦長さんからBMXチーム横須賀フォックスがハロウィンデーにプライーベート招待されました。

大きなカボチャのオバケを頂き店頭展示。
まだまだハロウィンがメジャーではない時代、近所の子供の中には怖がる子もいました。
戦争体験者からは進駐軍の文化!とお叱りを受けました。

その後も艦長さんから空母ミッドウエイ、バーベキュー、プール(貸し切り)へと度々招かれました。

この時の写真がその後の横須賀市長横山さんへの表敬訪問で「日米友好スポーツ」としての大きなアピールとなりました。

横須賀市が全国に先駆けてBMXに理解を示した伏線となる招待でもありました。


山梨県清里高原パンテスコープで開催されたNBAサマーナショナルレースBMX大会でブルーリッジの艦長さんの奥様が東京ワイルドキャットのネコの首を絞め、甲府シーガルのカモメをシッポで叩き、前足で平塚ウッドペッカーズのキツツキをねじ伏せ、横浜スーパーソニックスの電波攻撃を眼力で跳ね返すキツネの絵が描かれた看板を設置(運動会にあるようなマスコット看板)。

そのアメリカンなユーモアにライバルチームが看板の前でポーズを真似て面白がって写真を撮っていました。

そのパワーが通じたのか艦長さんの娘さんはジュニアクラスの男の子に交じって優勝!続く2位、3位、5位がフォックスという偉業を達成しました。

1985年

オートバイ部門縮小し自転車専門店化。
社名「(株)横須賀昌和モータース」とは別に店名を「ヨコスカショーワ」。オートバイをイメージさせないためでした。

日本各地にあったBMX協会の上部団体としてJ・BMX・F全日本BMX連盟結成。
真の日本チャンピオン決定のため第1回全日本選手権が北海道白糠町で開催。スターターを経験。

その後、第3回福島、第4回群馬水上、第7回神奈川横須賀大会とスターターを経験。
第8回岡山大会では審判長トラックディレクターを経験しました。

JBMXF全日本選手権は各地のBMX協会が交代で主管となり、年に一度開催される国内BMX大会の最高峰です。

BMX新聞「アクショb」創刊。
編集アシスタントとしてお手伝い。

ジャーナリストであった編集長さんからは組織論を始めとする多くの人生哲学を学びました。

1986年

タウン誌「横須賀朝日(朝日アベニュー)」トップ面でマウンテンバイク特集。

大人の遊びの提案、大楠山での撮影でした。その後も自転車ingというコーナーで10年以上に渡りコメント。編集長さん女性スタッフさんから取材、広告記事の基本を学びました。

神奈川新聞横須賀支社へBMXチーム「横須賀フォックス」を売り込みに行ったのもこの頃です。

新聞社、出版社へのアピールは映画監督を夢見ていた学生時代の経験とアクションbの編集長さんのアドバイスが役立ちました。

1987年

横須賀市制80周年記念パレードでBMXチーム「横須賀フォックス」出演。
横須賀中央大通りでジャンプ等のパフォーマンスを披露。

横須賀市役所市長室への表敬訪問。
スーツを新調し選手たちは散髪、学生服。
横山市長の「日米友好スポーツじゃないか!」のお言葉は忘れられません。


当店ロゴ、マスコットのアクティブヨコスカショーワ!AYUマーク誕生。
男の子なのか?女の子なのか?未だに決めていません。

クリスマスセール!で「打ち出の小槌」型の抽選機が登場。
昭和の30年代、衣笠にあったスーパーチャンピオンの売り出しで使われていたものです。

一等、デイズニーランドパスポート券。

ちなみに私が結婚した年でもあります。
家内は高校時代応援団後輩バトン部のキャプテン、藤沢市の公務員保母でした。気ままな独身時代を終え、1年後には子供も生まれ父親としての自覚も芽生え始めました。

1988年

アメリカカリフォルニア州ロングビーチで開催された自転車ショーやアーカーンソー州リトルロックで開催されたBMXチャンピオンシップレース等を視察。

その後、91年まで4回渡米、アナハイムインターバイクショー、メーカー本社、自転車店を視察。
多くのメーカーと契約。マウンテンバイク、BMXアメリカンサイクルの黄金時代に突入しました。

アナハイムショーで見たストリートウエアのカッコよさに魅せられてスケートボードやフリースタイルBMXの取り扱いも開始しましたが、愛好者達のお行儀の悪さに呆れて数年で撤退。

映画ETで有名になった桑原の輸出用クロモリロードバイクを「アメリカン・スポルティーフ」と名付けて販売。カラーオーダーも出来て大ヒット商品となりました。

「KUWAHARA」のロゴがカッコ良かったなぁ。

「NISHIKI」「SHOGUN」と言った輸出用ブランドのマウンテンバイクも当店のスターアイテムでした。

1989年

BMXレーシングチーム「横須賀フォックス」日本最大のチームに成長。
全国大会で毎年のように優勝者を出し大活躍。テレビ、新聞、雑誌等マスコミから取材を受ける。TVCM(ケロッグ、ブリヂストン)やファッションショーにも出演。

立ち居振る舞いに主眼を置いたチーム方針に他チームから「軍隊」「部活」「社会主義」と言われていましたが「それがどうした!」「文句あっか!」の押忍精神で押し通しました。

阿部倉横横道路脇にBMXコース「横須賀湯ノ沢BMXトラック」完成。

オートバイチーム「トムソンガゼル」と共同使用していた地でしたがエンジン音の騒音が地元の町内会で問題となりBMX専用コースとなりました。

地元の町内会長さんが先代の幼馴染であったことも幸いしその後、地区レースやチャンピオンシップレース等も開催できるようになりました。横須賀市市民部青少年課の皆様の後押しもありました。

 

「SHOGUN」マウンテンバイク国内向け新型モデルの販売に際しカラーアドバイザーとして本社に招かれ、同席した横浜港北金子サイクルさん(BMXチーム横浜スーパーソニックス)と新時代カラー「サーモンピンク」を主張。

製品化されましたがこの色だけが全く売れず・・・・以後アドバイザーの話は二度と来ず。

1990年

商法改正により資本金を1000万円に増資。

マウンテンバイク大ブーム。国内メーカー在庫が無くなる非常事態。店舗裏の空き地に6畳のプレハブ倉庫を2棟建てての在庫確保でした。


J、BMX、F全日本BMX連盟の理事会でBMXオリンピック競技へ向けての話し合いが始まったのもこの頃でした。

連盟の理事となりBMX活動に熱が上がるのとは裏腹に店の経営はとても褒められたものではありませんでした。

売上高はどんどん上昇するが資本金増資と過剰在庫に、資金繰り悪化という経営者にとって一度は経験するアリ地獄の日々でした。組合や同業者、また先代からの温かい「喝!」を多く頂戴しました。

赤字体質はその後何年も続きましたが「趣味レベルからの脱皮」「在庫管理と財務のからくり」「父親としての自覚」を実感することにより少しづつ改善しました。

当店がコンパクト経営「そこいらの町の自転車屋」に徹するのはこの頃の反省です。

1991年

7月28日、第7回J・BMX・F全日本選手権大会、横須賀市平成町仮設コース(横須賀BMXシーサイドトラック)で開催。 主催、JBMXF全日本BMX連盟。後援、横須賀市、横須賀市教育委員会、横須賀商工会議所。

当店が事務局でした。全てが手作りの大会で多くの経験をしました。

市役所(市民部青少年課を始めとする各部署)、商工会議所、消防署(救急車)、町内会(テント備品)、青年会議所JC、市内企業スポンサー、テレビ、新聞各社マスコミ、旅館組合(選手宿泊)、自転車組合、メーカー、選手の父兄家族・・・そしてコース作り(建設会社)。多くの人達の協力で開催できました。

台湾選手も4人招き、開会式では市長さんや教育長さん、商工会議所副会頭さん、市議会議員さんのご挨拶もいただきました。本当にありがとうございました。

TV番組「所さんのもしも突撃隊」に横須賀フォックス出演。女性スポーツチャレンジャー飯島さんと横須賀湯ノ沢BMXトラックで撮影。

横須賀商工会議所主催による3ヶ月間に渡る経営塾(夜学)に参加。第1回卒業生。
バブル崩壊の予想と低経費コンパクト経営の財務を含めた基本を学びました。

1992年

12月クリスマスセールにて月間販売台数100台達成。
町の自転車屋にとって夢の数字です。
バブル崩壊時代にもかかわらずこの数字を達成できた事、商工会議所の塾に感謝です。

店頭展示台数を上回る月間100台は小規模店パパママストアーの夢の数字です。バイトのお手伝いのおかげで達成できました。

第8回J・BMX・F全日本選手権(岡山)でトラックディレクター審判長を経験。

1993年

「横須賀フォックス」のライダー2名がBMX世界選手権(オランダ)に日本代表として出場。
横須賀市よりスポーツ栄光賞を受賞。世界戦という事で他のスポーツ全ての競技を差し置いてトップ表彰でした。快感〜でしたよ。

横須賀湯ノ沢BMXトラックが横横道路サービスエリア建設の為に閉鎖。

平成町の埋め立て地公園計画の中にBMX、マウンテンバイクコースが組み込まれ横須賀市役所で会議。

1994年

平成町うみかぜ公園造成(BMX、マウンテンバイクコース)と共に「横須賀フォックス」ショップチームとしての役割を終え運営を市民に譲渡。

「うみかぜ公園コース」はBMX全日本選手権大会開催やレース実績等、横須賀市からのご褒美だと思っています。

選手の為のコースではなく市民の遊びの為のコースである事。税金を使うという事はどういう事なのか?又、市議会議員さんや市の幹部クラスの方との話し合いで交渉術や説得力もコース作りの中で学びました。

横須賀フォックスの実績が起爆剤となって市民へ新たな場を提供する喜び。「うみかぜ公園コースの生みの親」の一人としていつまでも忘れることの出来ない経験でした。

議員さんや市役所の職員の方の温かさに感謝の気持ちでいっぱいでした。

又、公共の施設として誕生した公園で店の営業活動を絶対にしてはいけないと心に誓った時でもあります。


店舗建て替えの為、池上にて仮店舗営業。

1995年

新店舗新装開店。リニューアルオープン。
店名「サイクルショップショーワ」に変更。

3月17日の開店日から31日までの半月で販売台数100台突破!(106台)1日22台も未だに破られない当店記録です。

道路数100メートルに渡り花輪が飾られ商店街、取引先、同業者の人達にも感謝、感謝、感謝!

創業者である先代が亡くなった年でもあります。新店舗を見届けた後の旅立ちでした。

1998年

横須賀市優良商店受賞。

横浜ベイスターズ優勝セール開催。
しかし、巨人軍を始めとする他球団ファンの逆鱗に触れ?売上高はさっぱり。以後、野球ネタのセールは自粛・・。

製造物責任法(PⅬ法)の施工から3年、カスタムメイド自粛の気運がトップメーカー間で徐々に高まり当店も自粛。コアなカスタムパーツが店内から消えました。

1999年

3月、春の自転車セールにて3度目の夢の月間販売台数100台達成!地域振興券効果によるものでした。

横須賀市を舞台に放映されたブラスバンド部高校生の青春TVドラマ「L×I×V×E」で主演の女高生が乗ったミヤタのシテイサイクルの同型モデルが爆発的な売れゆき。

当店が番組に提供しているという変な噂が流れましたが、「そのまま信じさせておけ!」と否定しませんでした。

2000年

自転車屋を舞台に放映されたTVドラマ「サマースノー」において撮影に使用されたGTの子供車やマウンテンバイク、BMX、数台が当店に秘密裏に入荷。

撮影終了が早かった為、TV放映時にはすでに自転車が当店にありました。TVを観ながら店にある自転車が映ったと大はしゃぎ。

メーカーの廃業や倒産、身売りが続き90年代戦国時代のツケが我が業界を襲いました。

30メーカー程あった取引メーカーを整理。

スポーツ部門は世界のトップメーカーへと成長した質実剛健GIANT、大資本経営ブリヂストン、ヤマハ、シマノ等、今後の安定成長を見込める会社(リーディングカンパニー)を選択。精鋭メーカーとの深い付き合いで不況にも強い店作りへと大きく方向転換。

BMX部門は縮小、撤退。
80年代に自転車の高校野球、ラグビー、ボーイスカウトを目指したBMXレーシングチーム「横須賀フォックス」と横乗り文化を目指す新しいストリート系BMXerとのギャップが原因でした。

ショーワは言葉使いの良い規律正しい高校生歓迎!自由を語る茶髪、ピアスのストリート系高校生出入り禁止と言われていた時代です。

2001年

「カラフルシンプル21世紀!」をキャッチフレーズに高校通学車をさらに拡販。
通学快特自転車、通学特急自転車、近距離、長距離、坂道コースに適した高校通学自転車の提案。
人気色ランキングの発表。

クラブ活動、委員会活動等、高校生活をエンジョイする多くの礼儀正しい高校生、又学校の先生方のお客様に恵まれました。

それが子育て中の親として多くのヒントを頂きました。受検シーズンになると「がんばれ受験生!」のプライスカードをつけるショーワの伝統はこの頃から始まりました。

2003年

地域密着店としての姿勢をより明確化。
「自転車生活10%」のすすめを提案。脱プロショップ!脱お仲間ショップ!

自転車にかける時間やお金は「生活の10%くらいがちょうど良いですよ」という意味ですが、もうひとつ意味があります。販売シェア10%です。

経費と売上のバランスを考えた時のちょうど良い仕事量がこの数字である事に気がつきました。

固定客マニアを増やし「一番店戦略!シェアアップ!」の声が業界で高まっていた時代へのアンチテーゼでもありました。

私自身、子育て真っ只中で子供に「自転車屋に生まれたからお金がなくて大学に行けなかった」と言わせたくないと必死でした。教育費がこんなに掛かるのか?とくじけそうにもなりましたが・・・・。趣味を含め自分にお金を使う事は夫婦共に無くなりました。

店はサイクル部室やサロンではない仕事場だ!
店を居場所(たまり場)にしようとする「自転車生活100%マニア」にとって居心地の悪い店にする努力の日々でした。

当店が主婦を始めとする女性のお客様が圧倒的に多いのは「自転車生活10%」方針を貫いた結果だと思っています。

2005年

先代女将生涯を終える。
片足を引きずって歩く障害者でありました。町の多くの人に助けて頂き感謝です。

又、母は元気な頃から自転車に乗れませんでした。乗れないのに自転車を売っていました。

ちなみに家内は一輪車に乗れません。でも乗れる私より教え方がうまい不思議???母への介護は嫁でありながらまるで自分の母親を看るように献身的でした。

下の世話まで愚痴ひとつ言わずに丁寧に優しく、私が家内に頭が上がらない最大の理由です。

2006年

電動アシスト自転車の販売台数が急上昇。
マウンテンバイク、シティサイクル、子ども車に続く当店の主力商品に。

自己満足的イメージ経営や流行経営からの離脱により店の体力が向上。改めて財務の重要性を知る。

ベテランの域に達して来たことにより業界動向が冷静、客観的に見られるようになってきた事を感じるようになりました。

2007年

「スポーツBAA PLUS」認定店に合格。横須賀初、第一期生。
自転車協会の賛助会員店に。

自転車協会で二日間の缶詰授業、そして試験。久しぶりに学生時代に戻ったような緊張でした。試験に落ちると言う事は自転車店にとって最悪のレッテルですから・・・認定店は毎年、自転車協会で授業を受けます。

2008年

ホームページ開設。
戦後3度目のサイクルブームの流れに乗ってスポーツサイクル販売台数増。

カーボンロードやクロスバイクの販売台数が上昇!リーマンショック効果と業界内では言います。経費の掛かる車やオートバイを手放して健康を意識して自転車に乗るという事でした。

GIANT プレミアムディラー(GPD)契約。

想い帰せば当店とGIANTの付き合いは一人の営業マンでした。アメ車(アメリカンブランド)全盛の80年代後期、けんもほろろに突き放す当店に足繁く通い続けてくださいました。

企業を成長させるのは社員一人一人の誠実さだという事を思い知らされました。世界最大の工場、最高の技術力。自転車業界人でトップメーカーGIANTを軽視侮辱するものは誰もいなくなりました。

自転車業界アジアの時代到来!実感です。

2009年

3,4月の春の自転車セールでブリヂストンアルベルト県内販売台数1位を記録。
その後アルベルト人気は3年ほど続きましたが価格が急上昇した事で当店スターアイテムの座を降りました。

業界誌サイクルプレスから安全整備店TSマーク(障害、賠償保険付き安全点検マーク)の取材を受けました。
県内でこの制度を活用している店が少なく、制度化30年に渡り安全点検を続けている当店に白羽の矢が立ちました。

その後テレビ等でTSマークが認知されて行き、同業者も多くの店が積極的に活用し始めました。

2010年

ホームページをリニューアル。

ブログとか言うものを始める・・・・タイトルの「至誠一貫」は高校入学時、担任だった磯部南海雄先生(書道)が黒板いっぱいに書いてくださった四文字熟語。

以来、座右の銘となる。先生は生涯の恩師となり私のお手本でもあります。


当店前を走る伝統の新春駅伝「三浦半島駅伝」応援の為に小旗を50本用意、チラシ広告も出し、町の人達と応援!

2011年

自転車業界、東日本大震災需要!

3月の「春の自転車セール」(新入学おめでとうの表示等に問題があるという理由で配布予定チラシ1万枚を破棄、華やかなセール店頭飾りも中止!店内電灯を消した中での営業)において4度目の月間100台(101台)達成!2度目の1日20台達成。・・・・が、心は全く躍りませんでした。

メーカー、組合と協力し東北へ義援金活動。

神奈川テレビ「ありがとッ」出演。自転車協会スポーツBAA&サイクリングを店内と阿部倉町で撮影。

2012年

GIANTクロスバイク、ロードバイク、販売台数ジワジワと順調な伸び。新しい自転車ファン層の登場。

店の女将である家内が店の前の横断歩道で交通事故。

町の商店「繁盛店に女将あり」と言われる理由がわかりました。バイト君のお手伝いや多くの人に助けて頂きました。人の温かさを改めて知った年でもありました。

2013年

三浦半島「自転車半島宣言」
横須賀市観光課より自転車組合に協力依頼。

横須賀市、横須賀警察、自転車の安全走行の意識が高まってきました。

GIANTが当店スポーツ車部門販売台数第1位!新王者。

2014年

スポーツ自転車の安全基準、スポーツBAA新制度化。
横須賀初の認定店として当店で販売する全スポーツ車に自転車協会「スポーツBAA PLUSマーク」の貼附資格を得ました。

取引する海外ブランドメーカーに「自転車協会の入会と法令遵守」を強く勧めました。
我が日本のルールに従おうとしないブランドを次々と契約解除。

ハンドル幅、ベルやブレーキ、リフレクターが付いていない・・・サイクルスポーツの道具である前に公道を走る車両である事の意識が低すぎる事にあきれました。

ブランドイメージばかり気にしているメーカーよりもやるべき事をきちんとしているメーカーを選択。

業界内二極化!
倫理や秩序を守る企業と従わない企業。
車検制度と罰則による法律がない事が大きな理由です。

ホームページをスマートフォン向けにリニューアル。

2015年

自転車競技大会「メリダ・ミヤタカップ2015」が横須賀市内(衣笠城址近くの山の中)で開催。

ジャイアントに次ぐ世界第2位のスポーツ自転車メーカーメリダ(ミヤタ)のグローバルディラーとして正規契約。

今後、業界を正しく導いてゆくだろうと思う日本の老舗ミヤタ魂を受け継いだ静かでガッツあるKさんを応援したいと思ったからです。


電動ロードバイク ヤマハYPJ−R新発売。三浦半島地区での第1号車を販売。


伝統の新春行事「新春来福・三浦半島駅伝」の応援をさらにパワーアップ!
横断幕3枚とのぼり旗3枚を用意し、旧箱根駅伝のテーマ曲「喜びの飛行」を店頭で流しました。

応援団長!を自称しタスキに白手に腕章でエール!「ちゃんわ、ちょんわ、クエックエッ」と意気込むが、やったら絶対離婚と家内に全力で押さえられる。

2016年

長井海の手公園ソレイユの丘のレンタサイクル整備、三浦半島サイクルスタンプラリー等、横須賀市観光課とメリダの活動に協力。

7月、当店の圧倒与党となったGIANT本社に招待され密談。
世界制覇した絶対王者の商品開発力、工業型メーカーとしてのリーダーシップ、社員のモチベーション(特に女子社員)に心が震えました。

世界の自転車業界がシマノ、ジャイアント、メリダとアジアの時代になった事をさらに痛感。

自転車協会SBAAロードバイクのメンテナンス動画を当店で撮影。トップページ「教えて!自転車のすごい人」の中で観れます。なぜ?帽子を被らなかったんだ!と猛反省・・・薄くなりすぎた髪に「誰だ!この爺?」


電動クロスバイク ヤマハYPJ−C新発売。YPJ−Rに続き三浦半島地区での第1号車を販売。

2017年

4月16,23日TBSラジオ「ミラクル・サイクル・ライフ」に自転車店主としては初のゲスト出演。
アリtoキリギリスの石井さん。TVプロデューサーツーキニストの疋田さんと赤坂スタジオでサイクリングトーク。(ホームページトップページから聞くことができます)

神奈川県自転車商協同組合横須賀支部総会で支部長に( 順番みたいなものです)

132年に一度の三浦二大霊場(薬師如来、不動尊)同時御開帳、御朱印サイクルラリー4月28日〜5月28日に協力。 三浦半島内49ヶ所のお寺さんを自転車で巡るものでした。
制覇されたサイクリストの多さに驚きました。


11月28日、横浜で開催された組合フェアで「 我が自転車人生とTSマーク」についての講演。

2018年

ミヤタサイクル(メリダ)が横須賀市と自転車観光推進協定を締結。

メリダグローバルショップとして、又神奈川県自転車商協同組合県南ブロック会と共によりいっそうの協力を誓いました。

電動アシストサイクル・ヤマハPASの販売台数が驚異的な伸び。

ホームページをリニューアル。新しい担当者は女性ロードレーサー。



2019年

ありがとう平成!
令和元年、昌和63年。

Eスポーツバイク元年。
GIANT電動クロスバイク・エスケープRXE+。電動マウンテンバイク・ファゾムE+。共に三浦半島地区での第1号車を販売。

神奈川県自転車商協同組合70周年記念祝賀会が横浜のローズホテルで開催。

店頭看板とテントをリニューアル(1月)
店内照明と冷暖房機を設置(6月)


9月消費税導入前の駆け込み需要。
ヤマハPAS月間販売台数新記録達成。
県内自転車賠償責任保険加入義務化によるTS点検とブリヂストンサイクル(一部ヤマハ)に搭載された一発二錠のリコールで販売に修理に大パニックの忙しさでした。

2020年

新型コロナウイルスの影響により自転車業界も非常事態。

工場のロックダウン、世界的自転車重要の拡大による自転車不足。数ヶ月先までの計画仕入れ。
3密という言葉も生まれマスク着用、人数制限等の入店規制。

多くの人が手に触れる貸し出し用空気入れの撤去。

営業時間短縮。

終わりきらないブリヂストンサイクルの一発二錠のリコール修理も重なり、新車販売、修理に整理が付かず半開営業、臨時休業(シャッターを閉めた中での作業)と心身ともに疲れる毎日でした。

2021年


水、木曜日 週休二日制導入。
売上高至上主義経営からゆとり営業を目指すも営業日にお客様が集中。

自転車業界自転車不足さらに悪化。在庫確保のための計画仕入れに奮闘。当店在庫を求めて遠方からのご来店に感謝。

業界紙「サイクルビジネス11月号」のトップページ見開きに当店が掲載される。「コロナ禍においてマスコミの報道を鵜呑みにできない!」と、記事に書いてありました。たぶん、私が記者に吠えたのでしょう・・・。

景気後退なのに価格が上昇するスタグフレーションを我が業界だけではなく世の中全体で感じました。

2022年


自転車業界大嵐
相変わらずの商品不足と情報の混乱。

安全基準(BAA)に満たないメーカー不明の自転車がインターネットを通じて出回る。
道交法違反の電動サイクル、自己流カスタム改造車等、困った自転車の対応に「当店は関わりを持ちません」宣言。

精度がでていない、メーカーのバックボーンのない自転車の修理受付をしない硬派な方針が、メーカー品を支持するお客様との強い信頼関係をさらに築きました。

急激な円安の為、自転車の価格が高騰。
計画仕入れによる値上げ前の自転車を多く持つ当店にとっては追い風でした。

プライベートに置いては嬉しい事、悲しい事、色々ありました。

外部ブログ「自転車屋日記・至誠一貫」で我が青春記「自主制作映画と熱恋時代」を32回にわたり連載。

2023年


自転車不足は徐々に終結しましたが、インフレにより自転車価格がさらに高騰。
全国的に販売台数激減、修理売り上げ急増。

食費等の生活必需品優先生活のため自転車は買い替えず修理して乗るお客様が多く、店内はお預かり修理車渋滞の日々でした。

4月1日、ヘルメット着用努力義務化によりヘルメットの品不足。8月末まで予約が埋まると言う非常事態。

5月、電動スポーツ車℮バイクの電気系統等の修理が続き、定休日もシャッターを閉めた中での作業に追われ、行楽の季節に倉庫の中のような店内で仕事に集中。気が付くと昼食も食べず日が暮れていました。

コロナ以降の経済不安定な中で当店の今年のスローガンは「アメーバーくにゃくにゃ大作戦」

柔よく剛を制すの精神でどんな状況下でも柔軟に対応という事でした。

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